幸運な出逢いの数々/その2

元サントリー社長・佐治敬三氏。偉人と

イラストレーターとして又、グラフィックデザイナーとしてまさに旬を迎えていた、1960〜80年代を佐治敬三氏という豪傑と過ごしたことは、非常に大きな影響があったと同時に、とても幸運なことであったと思われます。「仕事と言うもんは定時まで、ただ真面目に務めたらエェというもんでは無い。酔っぱらっていようが何だろうが、求められる結果をシカと残すことがプロの仕事である」という訳で、デザイン室と営業部に関しては、いちはやくフレックス制を導入しました。当時はまだフレックス制などという言葉は無く、自由出勤と言っておりましたね。(自由出勤…まことに甘美な響きではありますが、実は恐ろしいのです。結果を求められます。「真面目に一所懸命やったのです!」の言い訳が効きませんから…)又「自社の仕事だけしていては腕が鈍る。どんどん外の空気を吸い、それをサントリーにフィードバックせよ」と、空いた時間を利用しての社外仕事をアルバイトとして請け負うことも奨励されました。こうした恵まれたと言いますか、彼にとって実に都合の良い仕事環境の下、「サントリーの主力デザイナー」であり「フリーランサーイラストレーター」でもあるという、2足の草鞋生活にドップリと浸かるのであります。宣伝部は東京へ行ってしまいましたが、何ともなかったのです。(実はちょっと寂しかった)
「どくとるマンボウの挿し絵の奴」ということで、吉行淳之介さんやら眉村卓さんやら多くの作家から、お声が掛かるようになりました。そしてビックラこく様な大手の広告代理店から、これまたビックラこく様な一流企業の広告作品の依頼なども来るようななり、イラストレーターとして世間に認知されるようになって行きました。この時期、様々な仕事や、様々の人物との出逢いを通じて、画力・表現力が飛躍的に進化し、彼の作風は完成されて行きました。
しかし、時は流れ…時代は変わり…官民一体となった世紀のドンチャン騒ぎ[大阪万博]の終わった頃から、いわゆる世間の常識というものがジワリジワリと、彼の人生に影響を及ぼしはじめたのです。デザイン室の先輩や同期たちの多くは独立開業し、サントリーを離れておりました。気が付けば、いつの間にやら大ベテラン。サントリー大阪本社の社員の間では「佐々木侃司、デザイン室・室長就任」の話題が昇りはじめました。
「どうすんノ?どうすんのヨ?オレェ!! 続くゥ!!」