カンさんには、ケンさんという弟がおりました。自由奔放…ということにおいては、むしろカンさんよりも遥かに上だったかもしれません。若いころは、行方不明になることも度々あったようでした。「オレは兄さんとは違う!」「オレはケンのような生き方はせん!…
好きなモノと言えば…ビールの次に欠かすことのできないのが「シャケ缶」であります。家が留守になり「お昼は、冷蔵庫の中に用意してるからにチンして食べてネ」なんていう機会が訪れると、必ずこれを買いにいきます。で、一人で食べるのだからそのまま食べれ…
当時は破天荒な学校として知られていた大阪芸術大学ではありましたが、だからと言って、そこにいる全ての人が破天荒であったわけではありません。常識人そして、シャレの解せないオカタイ方々もおられ、当然その野良犬天国を心地よく思っていない人もおりま…
メアリーが、一体どのくらいの期間を芸大キャンパスで過ごしたのかは、正確なところは分かりません。只、相当昔からいたことは確かなようです。しかも、長年暮らしてきただけでなく、芸大キャンパス内でかなりの数の子供も産み落としているということでした…
1972年より、非常勤講師として大阪芸術大学に通いだしましたが…。そこで異様な光景を目にすることとなります。こちらに1頭、あちらに2頭…ワン子、ワン子、ワン子であります。芸大キャンパス内は、野良犬天国でありました。大阪芸術大学は小高い丘の上にキャ…
1月22日の日曜日、一周忌の法事を行いました。場所は通夜・葬儀と同じ大谷会館。大阪でした方が良いかなという話しにもなったこともあったのですが、一周忌は本人が眠っている地元でやろうということになりました。佐々木侃司が主役のイベント(?)ではあり…
すぐに完全退社とはならず、嘱託としてサントリーにしばらく籍は残りましたが、5年後の84年にその嘱託勤務も辞して、身柄は大阪芸大へと移りました。今でも「サントリー宣伝部の〜」と言われることの多いカンさんですが、大阪芸大には非常勤講師時代を含めて…
デザイン室・室長昇進の件は、当時の事情を知る方々のお話しによれば、ほぼ決定事項だったようです。もちろん本人にも打診等はあったようですが、家でその話しをしたところ「ハァ?またそんな似合わんことヤメとき。」と言われましたので、やめときました。 …
イラストレーターとして又、グラフィックデザイナーとしてまさに旬を迎えていた、1960〜80年代を佐治敬三氏という豪傑と過ごしたことは、非常に大きな影響があったと同時に、とても幸運なことであったと思われます。「仕事と言うもんは定時まで、ただ真面目…
佐々木侃司という人が、イラストレーターとして生涯を送ることができたことの背景にあるもの。「名前を聞いただけではピンと来ないが、絵を見ればすぐ分かる、独特でユーモラスな作風・卓越した画力と表現力・日々の鍛練」と思われる方も多いことでしょう。…
美食家で知られる、開高健さんや山本容朗さん、そして近年では、あの食魔人・小泉武夫さんと…食道楽による食道楽作品の挿し絵や装画を請け負うことが多くありました。作家や読者の皆さんからは「食べている姿が、もう本当においしそうで…」という、お声をい…
1945年(昭和20年)夏、第2次世界大戦は終了しました。満州大陸を南下して来たソ連軍は旅順に進攻して来ました。旅順市内の日本人は大連市に移住することになりました。旅順市内にはロシア人が満ちあふれました。軍隊の後からついてきた婦人や子どもたちで、…
昔、日本帝国がつくった最大の植民地、旧満州帝国(中国東北三省)の最南端、遼東半島にロシアがつくった旅順・大連という都市がありました。旅順は日露戦争の激戦地であったと所で、その港にはロシアの東洋艦隊の全艦艇が集結していたのでありました。 日露…
イラストレーター・佐々木侃司…彼はたくさんの作品の他にも、たくさんの名(迷)言・珍言、文章、そして数々のトボケたエピソードを残してくれています。それらを思い出すごと、見つかるごとに、年代関係なくランダムにご紹介して行くコーナーとして改めてス…