幸運な出逢いの数々/その1

「どくとるマンボウ航海記」改訂版より

佐々木侃司という人が、イラストレーターとして生涯を送ることができたことの背景にあるもの。「名前を聞いただけではピンと来ないが、絵を見ればすぐ分かる、独特でユーモラスな作風・卓越した画力と表現力・日々の鍛練」と思われる方も多いことでしょう。もちろん、プロの世界は厳しいものですから、それらが全くなければやっては行けませんので「違うゾ」とは申しません。が、彼は求道者のような努力家でもありませんでしたし、ケッコー怠け者で、お気楽な性質でした。作風・画力にしてもプロになった時点では、皆さんにお馴染みの、あのスタイルも完成されてはいませんでした。ホンのちょっとしたことがキッカケで人の人生が大きく動くことは、しばしばあることです。カンさんの場合も、そうと言えるでしょう。「幸運な出逢いの数々」が、彼の人生を切り開いて行ったのであります。
洋酒の寿屋(現在のサントリー)で、社会人生活をスタートさせるのですが、当時の寿屋は、あまり一般から新入社員を広く募ることがなく、関係者と縁も所縁もない人は、入りたくても中々入れない会社でありました。まず彼にとって幸運だったことは、市立京都美大(現在の京都芸大)に在学していたことでした。絵の世界を志した時は東京美大を受験しておりますが、あえなく玉砕。1年の浪人生活の後、京都美大に入学したのですが、寿屋・宣伝部には京都美大の出身者が多く、寿屋の面接を受けるチャンスが他の学校よりもあったのです。更に、タマタマ同級生の友人が、実は寿屋の創業者と大変所縁の深い人物でありました。「何やカンさんサントリー入りたいのん?ホナうちで聞いてみるワ」てなこともありまして、まんまと寿屋・宣伝部/宣伝技術課へ入社できたのでした。
当時の寿屋大阪本社には、京都美大の先輩であり、あこがれのイラストレータ柳原良平さん、開高健さん、山口瞳さんらがおられました。開高さんが編集を担当された冊子「洋酒天国」に良平さんの背後から、ポチポチと挿し絵を入れることができました。その内の1つに、とある新人作家によるエッセーの挿し絵がありました。後の北杜夫さんです。そして、その挿し絵をタマタマ北杜夫さんに気に入られ、後に「どくとるマンボウ航海記」が出版される際、中央公論社を通じて、同書に入れる挿し絵の依頼があったのです。全国の書店に並ぶ本の挿し絵を描くことになり、舞い上がりながらもビビリまくっておったようですが、その時点では「エライでたらめな本やナ…これは大して売れんデ。マァ、たまにはこういうこともあるのだナ」ぐらいにしか思っていなかったのでありました。しかし、このことをキッカケに佐々木侃司の人生は大きく動き出すのでありました。「どくとるマンボウ航海記」はみるみるうちに大ベストセラーに、北杜夫さんは芥川賞受賞、「どくとるマンボウ」はシリーズ化されました。北杜夫佐々木侃司のコンビがナンとなく出来上がってしまったのです。(続く)