前歴の前歴・当時の住まい(2)

広島県山形郡八重町、昭和22年〜26年(

1945年(昭和20年)夏、第2次世界大戦は終了しました。満州大陸を南下して来たソ連軍は旅順に進攻して来ました。旅順市内の日本人は大連市に移住することになりました。旅順市内にはロシア人が満ちあふれました。軍隊の後からついてきた婦人や子どもたちで、それこそロシア人の街になってしまいました。私は驚きました。旅順の市街やアカシアの樹々は、ぴったりとロシア人の街になってしまいました。国民小学校6年生の私はロシア人にロシアの街を返す時が来たのだなと思いました。以後は、日本人の都市、大連市へと移り、そして2年後には広島へと引き揚げました。
広島の農村で見た、芸術的な日本人農家の仕事ぶりや、稲穂の色の変化に心を奪われて、広島の田園風景をスケッチするのが青春時代のひとコマでありました。
京都市美術大学3回生の私は、担当の先生にこう言われました。「あんたの作品にはバタくさいところがあるが何やろな?どっか違うとこで育っていますな」「え、まぁ」と私はごまかし、頭の中のロシア人たちのことは内緒にしておこうと思いました。
そして、洋酒の寿屋(現・サントリー)宣伝部でイラストレーションなどの仕事ができるようになってから、旅順から連れて来た、ロシア人の幽霊たちはチョクチョクと、私の絵に現れるようになったのでした。(佐々木侃司筆)
近年では、あまり語られることは、あまりありませんが…当時、満州に住む中国人と日本人の間では、ごく普通にご近所づきあいがあったそうです。カンさんのお母さんは北海道の漁師町の出身で、魚の目利きができました。ですから中国人の魚売りは毎朝、カンさんの家にやってきて“カンママ”に1匹1匹値段をつけてもらってたそうです。お互いに、故里の料理を教えたり、教わったり…又一緒に商売をしたり…満州映画社などは、両者が手を携えて、日本でもない・中国でもない…ましてやハリウッドでもない“満州の映画”を創ろうと若き血潮をたぎらせていたそうです。終戦後の引き揚げの際は、中国の奥さんたちと日本人の奥さんたちは、涙・涙のお別れをしたそうです。最近、ほんの一部の方々の軽率な発言・行動、そしてほんの一部の方々の意図的な発言・行動で、両国の関係がギクシャクしてきました。本当に悲しく思います。
上のイラストは「想い出の風景/大陸の想い出」に近日アップいたします。