前歴の前歴/その1

旅順市明治町、昭和13年〜19年(1938〜

昔、日本帝国がつくった最大の植民地、旧満州帝国(中国東北三省)の最南端、遼東半島にロシアがつくった旅順・大連という都市がありました。旅順は日露戦争の激戦地であったと所で、その港にはロシアの東洋艦隊の全艦艇が集結していたのでありました。
日露戦争後、この地域は南関東州という名の日本領土になったのであります。それは新進気鋭(?)のあるいは旧弊に甘んじることをきらった日本人の集まる所となりました。
この遼東半島は海に囲まれた、日本の気候に似た温暖な地域のため、ここに住みついた日本人たちにとっては、日本内地での生活環境の延長上にあるようで、しかし日常が新環境で自由であったため、日本ばなれしたハイカラ(モダーン)な生活を楽しんでいたのでした。
また、ロシア建築の街であり、旅順市も大連市も緑深い花に満ちあふれた公園のような環境でしたから、それは当時の日本人たちにとっては夢のような土地だったのであります。
物心ついて、遊び盛りになる頃、私はこの土地に東京から移住したのであります。外に出ると日本語の通じない中国人たちが多く、そのことがいささか恐く感じ、一人で外出するののは、気後れのすることでした。街はどこも道路が広く、アカシアの街路樹の通りでは、なかなか遊び相手、見つかることはありませんでした。そしてクレヨンが、いつもの一人遊びの相手で、絵ばかり描くコドモになってしまいました。
小学校に上がりますと、そこは昔のロシアのホテルを改造した、白亜のお城のような校舎でした。緑の樹々に囲まれた教室はバルコニー付きで、花壇の花々までがお伽話に出てくるロシアの宮殿のようでありました。学校の隣は植物園で芝生が広がり、その北面には動物園があり、博物館と並んでおりました。そして校舎の2階は師範学校(教育大学)だったものですから、それはまさに理想的な教育環境でありました。
私はチビでよくカゼをひきましたが、学校を休むのもひとつの楽しみでした。本を見たり読んだり、クレヨン画を描きまくり、ラジオを一人聴くことは、おだやかな楽しみでありました。また、住んでいる官舎はロシア建築で、もともとロシア陸軍の将校官舎で、コドモから見れば広すぎる環境でした。白亜の建物で、ドアに鍵がかかっている使わない部屋、暗い廊下、シミが無気味な壁、高くて暗い天井などからロシア兵の幽霊が出そうで、怖がりながらも、見えない姿をアレコレ想像するのもひとつの楽しみでありました。
そして、もうひとつの楽しみがありました。ロシアの古い建物を眺め歩くことで、それはお使いの行き帰りを利用していました。廃屋になった無気味なものはなどは、とてもロシアの幽霊が出て来そうで、ワクワクとしながら怖がっておりました。そして、その建物のひとつひとつの不思議な形の向こうに、どんな人が住んでいるのかを想像しておりました。街は中国人と日本人だけなのに、私の頭の中には幽霊にされたロシア人が何人もおりました。ドロップスの飴缶に描かれたロシア人少女も旅順のロシア人たちと一緒に私の頭の中に住んでおりました。(佐々木侃司筆)
上のイラストは「想い出の風景/大陸の想い出」に近日アップいたします。