弟のこと
カンさんには、ケンさんという弟がおりました。自由奔放…ということにおいては、むしろカンさんよりも遥かに上だったかもしれません。若いころは、行方不明になることも度々あったようでした。「オレは兄さんとは違う!」「オレはケンのような生き方はせん!」反目し合うことも多かったようです。一時は本当につき合いが途絶えた時期もありました。しかし、今思えば、やはり似たもの兄弟だったようにも思えます。父の法事で、十数年ぶりに顔を合わした2人。最初の言葉は「ヤぁ」でもなく「久し振り」でもなく…カンさんの黒い頭を見てケンさんは「何やソレ!染めとんのか?!」「アホか!お前こそ何や〜?ジジィみたいになりやがって!」…以来十数年間、2人は兄弟に戻りました。
そのケンさんも、先日あの世へと旅立ちました。また豪快な人がひとりこの世を去りました。レントゲン技師として、長年医療の現場で働いてきたケンさんは「自分の死後は、その遺体を検体に」と希望されていました。その役目を終えてから、遺骨は家に戻ります。何はともあれ、お疲れさまでした。あちらで、また仲良く兄弟ケンカしてください。
シャケ缶の話
好きなモノと言えば…ビールの次に欠かすことのできないのが「シャケ缶」であります。家が留守になり「お昼は、冷蔵庫の中に用意してるからにチンして食べてネ」なんていう機会が訪れると、必ずこれを買いにいきます。で、一人で食べるのだからそのまま食べれば良いのに、必ず何かしらの器に開けて食べるのです。少しだけ醤油をたらします。これと、白いゴハン、又はビールがあれば至福の瞬間であります。しかし元来小食なため、1缶を食べ切ることができません。
残りはラップを掛けて冷蔵庫に入ることとなりますから、当然夕方にバレます。「カンさん!何これ?!マ〜タこんなもん買ってきて!ちゃんとお昼は用意してるでしょ!!だいたいネ〜一人で食べるんやから缶のまま食べたらいいでしょ。また洗いモン増えるやないの!それにネ、食べんねやったら最後まで食べなさいヨ!汚ならしい残し方してモウ…あとビール飲む時にでチャンと食べなさいヨ。誰も食べへんからネ!!!」と、一方的にまくしたてられ怒られるのであります。ひたすら、大きな口を開け、声にならない声で「ハイ…ハイ…」と謝ります。しかし、残りを食べることはないのです。何故って…?缶詰めというものは「缶を開ける、その瞬間のワクワク」が醍醐味なわけですから「すでに開けられ他の器に移された残り」なんて「アホらしぃ〜て、そんなモン喰うてらへんデ!」やがてそのシャケ缶は「アドリブ素材」として佐々木家の他の料理に転用されるのです。シャケ缶風味のカレーってのが一ぺんあったナァ〜…。
最近はマグロフレークやらシーチキンに押され、あまりお店でも見かけることが少なくなりましたね。どうもニッスイやはごろもフーズはもう作ってないようですね。最近見かけるのはあけぼのフーズ製のみであります。でもアレは…味は良いのですが「からふとます」を使用してますから、身が赤いのですワ。白いヤツ食べたいな…。
聖母メアリー/その3
当時は破天荒な学校として知られていた大阪芸術大学ではありましたが、だからと言って、そこにいる全ての人が破天荒であったわけではありません。常識人そして、シャレの解せないオカタイ方々もおられ、当然その野良犬天国を心地よく思っていない人もおりました。犬は犬でそういう人の気持ちを敏感に感じ取りますから、愛想は悪くなり、増々両者の関係は悪くなるのです。ある日、とある一頭が「ナンやコラ!オッサン!」と、とある教授(噂では音楽関係の先生だったとか…)を威嚇してしまったことから、地元行政にクレームが入り、行政側も駆除せざるを得なかったようでありました。佐々木侃司先生は「ホンマしょ〜もないことしよるデ…」と学校へ行く楽しみが半減してしまったようでしたネ。しかし…しばらくすると、一頭、また一頭と、芸大キャンパス内に侵入しくるワン子たちの姿がありました。かくして、めでたく元通り。再び野良犬天国は形成されたのであります。しかしメアリーのように伝説化したワン子は、生まれなかったんじゃないでしょうか?今どうなってんのかナ?
●間があきまして、ご心配かけました…
聖母メアリー/その2
メアリーが、一体どのくらいの期間を芸大キャンパスで過ごしたのかは、正確なところは分かりません。只、相当昔からいたことは確かなようです。しかも、長年暮らしてきただけでなく、芸大キャンパス内でかなりの数の子供も産み落としているということでした。ですから、あの中には生まれながらの芸大っ子といのも相当数に昇っていたようであります。学生たちからもかなり慕われていたようで、メアリーの姿を見かけなくなった時には、有志の学生たちの間で「メアリー捜索隊」なるものも結成され、バイト先から拝借してきたトラックなどを駆使し捜索活動を行ったという話しも聞きます。まさに“芸大の聖母”だったのかもしれません。
こうして長い月日をかけ、“芸大生まれの子”“新規参入者”たちにより、ワンワン天国は形成されていったのです。キャンパス内をのんびりと、そして自由に行き来し、学生たちと共に食事をし、時には講義に出席(?)している子もいました。この何とものどかな風景は、大阪芸術大学には欠かせないものでした。
しかし、ある日のことでした…。彼らは忽然とその姿を消してしまったのです。一体彼らの身に何がおきたのでしょうか?(続く)
聖母メアリー/その1
1972年より、非常勤講師として大阪芸術大学に通いだしましたが…。そこで異様な光景を目にすることとなります。こちらに1頭、あちらに2頭…ワン子、ワン子、ワン子であります。芸大キャンパス内は、野良犬天国でありました。大阪芸術大学は小高い丘の上にキャンパスが拡がっております。ここに通う学生たちは毎日、校門をくぐった直後“芸大坂”と呼ばれる旧勾配の坂道を昇り学び舎へと向うのですが(教師は教員バスが坂の上まで運行してますから、歩きません)そんな彼らについて、或いはエサを求めて何の気なく芸大坂を昇ってしまったワン子たちが、数多くいたわけです。ご存知のように犬という生き物は、昇り坂を駆け上がるのは得意ですが、下り坂はからっきしダメであります。それにキャンパスは彼らにとって広すぎるため、ウロウロしているうちに出口が分からなくなります。しかし、特別還らなければならない所があるわけではないので、多くのワン子はそのままキャンパスに住み着いてしまったのであります。そして、ここは彼らにとってまさに理想郷でありました。保健所のオッサンに追いかけられることもありませんし、学食(学生食堂)や購買部のあたりをウロウロしていれば、学生たちに食べ物を分けてもらえます。これは決して餌付け行為ではなく、互いに癒し、癒され、そして互いの自由は尊重し合う実にイーヴンな関係であります。そんなワン子の中にあって伝説的存在となっていたのがメアリーと呼ばれた雌犬でありました。(続く)
一周忌を終えて…
1月22日の日曜日、一周忌の法事を行いました。場所は通夜・葬儀と同じ大谷会館。大阪でした方が良いかなという話しにもなったこともあったのですが、一周忌は本人が眠っている地元でやろうということになりました。佐々木侃司が主役のイベント(?)ではありますが、当然のことながら本人はおらず、しかもそうなってから1年がたつわけですから、当初は身内だけの集まりになるかと思っていました。しかし24人の方々にご参列いただきまして、とても賑やかな集まりとなりました。その他、家のほうにはたくさんのお花やお菓子(そしてお酒)も届けられました。光福寺さんの心にズシッと来る説教の後、賑やかな食事会となりました。カンさん全盛期のバカ話し、そして「ウンコ話し」の回想で大変盛り上がりました。
家には、真っ白なままのキャンバスや紙が残されております。描きかけの絵もあります…まだまだ描きたい絵があったと思いますし、やり残したことも多くあるとは思いますが、この集まりをみますと、本当に幸せな人生だったのだなと思います。来年は三回忌であります。これは、さすがにもう身内だけでヒッソリと…と考えているのですが、はてさてどうなるんでしょうか?
幸運な出逢いの数々/その4
すぐに完全退社とはならず、嘱託としてサントリーにしばらく籍は残りましたが、5年後の84年にその嘱託勤務も辞して、身柄は大阪芸大へと移りました。今でも「サントリー宣伝部の〜」と言われることの多いカンさんですが、大阪芸大には非常勤講師時代を含めて31年在籍と、サントリー(嘱託を含めて27年)より長かったのです。依田先生との出逢いがなければ、サントリーで定年まで務めていたかもしれません。「運も実力の内」という言葉がありますが、何かしらピンチが訪れた時、又は訪れようとした時に、いつもそれを救うこととなる「幸運な出逢い」に恵まれました。
サントリー宣伝部の皆さんや北杜夫さんはもちろん…佐々木家が危機的状況を向かえている時に出逢ったのが、当時デヴュー直後のかんべむさしサンでしたし…イラストの仕事がめっきり少なくなった80年代終わりには、食魔人・小泉武夫さんとの出逢いがあり、イラストレーターとして再び息をふきかえすことができました。
「もし、あの時あの人に出逢わなければ〜」が非常に多い人生だったのではないでしょうか?もちろん、イラストレーターとして…だけではなくプライベートや芸大の先生としても数々の幸運な出合いがありました。そしてそれらの出逢いがまた、後にイラストレーター・佐々木侃司に大きな影響を与えました。その1つ1つの出逢いについては、またいずれ…。