幸運な出逢いの数々/その3

ジェダイの騎士ヨーダ

デザイン室・室長昇進の件は、当時の事情を知る方々のお話しによれば、ほぼ決定事項だったようです。もちろん本人にも打診等はあったようですが、家でその話しをしたところ「ハァ?またそんな似合わんことヤメとき。」と言われましたので、やめときました。
話は前後いたしますが、大阪万博の終わった頃にも思い掛けない、そして貴重な出逢いがありました。ジェダイの騎士であり日本を代表する脚本家でもある依田義堅氏であります。依田先生は、当時創立したばかりの大阪芸術大学の映像計画学科(現在の映像学科)の学科長でありました。今でこそ一流の名も誉れ高い大阪芸大でありますが、当時はまだ相当にヤバイ大学でありました。「何とかナァ、あの子らに絵心っちゅうもんを教えたってくれまへんやろか?」の依頼にホイホイ乗りまして、非常勤講師として、大阪芸大にも行くようになりまして、増々怪しいこととなります。「サントリー社員」「イラストレーター」そして「芸大の先生」と2足の草鞋どころか、三重生活であります。急な話でもあったため、何の気なしに引き受けた先生の仕事でしたが、この出逢いがコレマタ彼の人生を大きく変えることとなる出逢いでありました。
さて、その頃サントリーは…佐治社長は相変わらず豪快でしたが、サントリー株式会社はもう昔の寿屋ではありませんでした。世間様から一流企業として認知される会社となっておりましたから、かつては周辺から「キチガイラク」と言われたデザイン室も、それなりにチャンとした会社のチャンとした組織へと、そのスタイルが変わって行きました。(それでも他所から見れば、まだ相当ハチャメチャだったとは思いますが…)「侃流(カンリュウ?)」は叙々にサントリーという企業・組織に合わなくなり、生きた化石化して行くのでした。
彼なりに(ちょっと)悩みながらも、怪しい三重生活は数年間続きましたが、1978年のある秋の日、佐々木侃司は、憧れて入社し、そして愛して止まないサントリーを去ることを決めたのでありました。

幸運な出逢いの数々/その2

元サントリー社長・佐治敬三氏。偉人と

イラストレーターとして又、グラフィックデザイナーとしてまさに旬を迎えていた、1960〜80年代を佐治敬三氏という豪傑と過ごしたことは、非常に大きな影響があったと同時に、とても幸運なことであったと思われます。「仕事と言うもんは定時まで、ただ真面目に務めたらエェというもんでは無い。酔っぱらっていようが何だろうが、求められる結果をシカと残すことがプロの仕事である」という訳で、デザイン室と営業部に関しては、いちはやくフレックス制を導入しました。当時はまだフレックス制などという言葉は無く、自由出勤と言っておりましたね。(自由出勤…まことに甘美な響きではありますが、実は恐ろしいのです。結果を求められます。「真面目に一所懸命やったのです!」の言い訳が効きませんから…)又「自社の仕事だけしていては腕が鈍る。どんどん外の空気を吸い、それをサントリーにフィードバックせよ」と、空いた時間を利用しての社外仕事をアルバイトとして請け負うことも奨励されました。こうした恵まれたと言いますか、彼にとって実に都合の良い仕事環境の下、「サントリーの主力デザイナー」であり「フリーランサーイラストレーター」でもあるという、2足の草鞋生活にドップリと浸かるのであります。宣伝部は東京へ行ってしまいましたが、何ともなかったのです。(実はちょっと寂しかった)
「どくとるマンボウの挿し絵の奴」ということで、吉行淳之介さんやら眉村卓さんやら多くの作家から、お声が掛かるようになりました。そしてビックラこく様な大手の広告代理店から、これまたビックラこく様な一流企業の広告作品の依頼なども来るようななり、イラストレーターとして世間に認知されるようになって行きました。この時期、様々な仕事や、様々の人物との出逢いを通じて、画力・表現力が飛躍的に進化し、彼の作風は完成されて行きました。
しかし、時は流れ…時代は変わり…官民一体となった世紀のドンチャン騒ぎ[大阪万博]の終わった頃から、いわゆる世間の常識というものがジワリジワリと、彼の人生に影響を及ぼしはじめたのです。デザイン室の先輩や同期たちの多くは独立開業し、サントリーを離れておりました。気が付けば、いつの間にやら大ベテラン。サントリー大阪本社の社員の間では「佐々木侃司、デザイン室・室長就任」の話題が昇りはじめました。
「どうすんノ?どうすんのヨ?オレェ!! 続くゥ!!」

幸運な出逢いの数々/その1

「どくとるマンボウ航海記」改訂版より

佐々木侃司という人が、イラストレーターとして生涯を送ることができたことの背景にあるもの。「名前を聞いただけではピンと来ないが、絵を見ればすぐ分かる、独特でユーモラスな作風・卓越した画力と表現力・日々の鍛練」と思われる方も多いことでしょう。もちろん、プロの世界は厳しいものですから、それらが全くなければやっては行けませんので「違うゾ」とは申しません。が、彼は求道者のような努力家でもありませんでしたし、ケッコー怠け者で、お気楽な性質でした。作風・画力にしてもプロになった時点では、皆さんにお馴染みの、あのスタイルも完成されてはいませんでした。ホンのちょっとしたことがキッカケで人の人生が大きく動くことは、しばしばあることです。カンさんの場合も、そうと言えるでしょう。「幸運な出逢いの数々」が、彼の人生を切り開いて行ったのであります。
洋酒の寿屋(現在のサントリー)で、社会人生活をスタートさせるのですが、当時の寿屋は、あまり一般から新入社員を広く募ることがなく、関係者と縁も所縁もない人は、入りたくても中々入れない会社でありました。まず彼にとって幸運だったことは、市立京都美大(現在の京都芸大)に在学していたことでした。絵の世界を志した時は東京美大を受験しておりますが、あえなく玉砕。1年の浪人生活の後、京都美大に入学したのですが、寿屋・宣伝部には京都美大の出身者が多く、寿屋の面接を受けるチャンスが他の学校よりもあったのです。更に、タマタマ同級生の友人が、実は寿屋の創業者と大変所縁の深い人物でありました。「何やカンさんサントリー入りたいのん?ホナうちで聞いてみるワ」てなこともありまして、まんまと寿屋・宣伝部/宣伝技術課へ入社できたのでした。
当時の寿屋大阪本社には、京都美大の先輩であり、あこがれのイラストレータ柳原良平さん、開高健さん、山口瞳さんらがおられました。開高さんが編集を担当された冊子「洋酒天国」に良平さんの背後から、ポチポチと挿し絵を入れることができました。その内の1つに、とある新人作家によるエッセーの挿し絵がありました。後の北杜夫さんです。そして、その挿し絵をタマタマ北杜夫さんに気に入られ、後に「どくとるマンボウ航海記」が出版される際、中央公論社を通じて、同書に入れる挿し絵の依頼があったのです。全国の書店に並ぶ本の挿し絵を描くことになり、舞い上がりながらもビビリまくっておったようですが、その時点では「エライでたらめな本やナ…これは大して売れんデ。マァ、たまにはこういうこともあるのだナ」ぐらいにしか思っていなかったのでありました。しかし、このことをキッカケに佐々木侃司の人生は大きく動き出すのでありました。「どくとるマンボウ航海記」はみるみるうちに大ベストセラーに、北杜夫さんは芥川賞受賞、「どくとるマンボウ」はシリーズ化されました。北杜夫佐々木侃司のコンビがナンとなく出来上がってしまったのです。(続く)

侃食道:その1/実は粗食派

「食あれば楽あり/小泉武夫著」より

美食家で知られる、開高健さんや山本容朗さん、そして近年では、あの食魔人・小泉武夫さんと…食道楽による食道楽作品の挿し絵や装画を請け負うことが多くありました。作家や読者の皆さんからは「食べている姿が、もう本当においしそうで…」という、お声をいただいておりました。その描きっぷりから、佐々木侃司自身も相当の食道楽では、と思われている方も多いのではないでしょうか?しかし、案外「粗食派」でして、所謂グルメではありませんでした。むしろ、食に対する好奇心というものは、無かったと言ってもいいぐらい。外食をあまり楽しむ方ではありませんでしたし、「旨いものを食べる」ためだけに、わざわざ遠方に出かけるということも、ほとんどありませんでした。
もちろん、人として生きている以上、食べることは好きでしたし、旨いものは好きでした。ただ「旨い」にたいする、こだわりと言いますか、感性が何だか少々ヒネクレてはおりましたネ。
「粗食を愛す」と書けば高尚に思えますが、貧乏くさい食事を“わびしく”楽しむのが好きだったのです。納豆ゴハンに卵かけゴハン(昭和40年代までは卵は貴重品でしたが)芋ガユなどなど…。寿司屋に行っても食べるのはマグロの赤身、そして稲荷に海苔巻き。
「食」に関しては、あまり新しいものを追っかける方ではなく、子どもの頃から馴染んだ味を好みました。彼にとって「美味しい」は「懐かしい」が、かなりダブっていたようでした。
それと缶詰め好きでした。それも「○○の缶詰めの味が好き」というよりも「1人で缶詰めを開けて、コッソリとそれを食す」というシュチュエーションと言ますかディテールに対して「たまらんナぁ」という喜びがあったみたい。
不定期連載(?)「侃食道」では、カンさんの愛した、食事・食材、そしてお店をご紹介していきます。デハデハ、今日はこの辺で。

前歴の前歴・当時の住まい(2)

広島県山形郡八重町、昭和22年〜26年(

1945年(昭和20年)夏、第2次世界大戦は終了しました。満州大陸を南下して来たソ連軍は旅順に進攻して来ました。旅順市内の日本人は大連市に移住することになりました。旅順市内にはロシア人が満ちあふれました。軍隊の後からついてきた婦人や子どもたちで、それこそロシア人の街になってしまいました。私は驚きました。旅順の市街やアカシアの樹々は、ぴったりとロシア人の街になってしまいました。国民小学校6年生の私はロシア人にロシアの街を返す時が来たのだなと思いました。以後は、日本人の都市、大連市へと移り、そして2年後には広島へと引き揚げました。
広島の農村で見た、芸術的な日本人農家の仕事ぶりや、稲穂の色の変化に心を奪われて、広島の田園風景をスケッチするのが青春時代のひとコマでありました。
京都市美術大学3回生の私は、担当の先生にこう言われました。「あんたの作品にはバタくさいところがあるが何やろな?どっか違うとこで育っていますな」「え、まぁ」と私はごまかし、頭の中のロシア人たちのことは内緒にしておこうと思いました。
そして、洋酒の寿屋(現・サントリー)宣伝部でイラストレーションなどの仕事ができるようになってから、旅順から連れて来た、ロシア人の幽霊たちはチョクチョクと、私の絵に現れるようになったのでした。(佐々木侃司筆)
近年では、あまり語られることは、あまりありませんが…当時、満州に住む中国人と日本人の間では、ごく普通にご近所づきあいがあったそうです。カンさんのお母さんは北海道の漁師町の出身で、魚の目利きができました。ですから中国人の魚売りは毎朝、カンさんの家にやってきて“カンママ”に1匹1匹値段をつけてもらってたそうです。お互いに、故里の料理を教えたり、教わったり…又一緒に商売をしたり…満州映画社などは、両者が手を携えて、日本でもない・中国でもない…ましてやハリウッドでもない“満州の映画”を創ろうと若き血潮をたぎらせていたそうです。終戦後の引き揚げの際は、中国の奥さんたちと日本人の奥さんたちは、涙・涙のお別れをしたそうです。最近、ほんの一部の方々の軽率な発言・行動、そしてほんの一部の方々の意図的な発言・行動で、両国の関係がギクシャクしてきました。本当に悲しく思います。
上のイラストは「想い出の風景/大陸の想い出」に近日アップいたします。

前歴の前歴/その1

旅順市明治町、昭和13年〜19年(1938〜

昔、日本帝国がつくった最大の植民地、旧満州帝国(中国東北三省)の最南端、遼東半島にロシアがつくった旅順・大連という都市がありました。旅順は日露戦争の激戦地であったと所で、その港にはロシアの東洋艦隊の全艦艇が集結していたのでありました。
日露戦争後、この地域は南関東州という名の日本領土になったのであります。それは新進気鋭(?)のあるいは旧弊に甘んじることをきらった日本人の集まる所となりました。
この遼東半島は海に囲まれた、日本の気候に似た温暖な地域のため、ここに住みついた日本人たちにとっては、日本内地での生活環境の延長上にあるようで、しかし日常が新環境で自由であったため、日本ばなれしたハイカラ(モダーン)な生活を楽しんでいたのでした。
また、ロシア建築の街であり、旅順市も大連市も緑深い花に満ちあふれた公園のような環境でしたから、それは当時の日本人たちにとっては夢のような土地だったのであります。
物心ついて、遊び盛りになる頃、私はこの土地に東京から移住したのであります。外に出ると日本語の通じない中国人たちが多く、そのことがいささか恐く感じ、一人で外出するののは、気後れのすることでした。街はどこも道路が広く、アカシアの街路樹の通りでは、なかなか遊び相手、見つかることはありませんでした。そしてクレヨンが、いつもの一人遊びの相手で、絵ばかり描くコドモになってしまいました。
小学校に上がりますと、そこは昔のロシアのホテルを改造した、白亜のお城のような校舎でした。緑の樹々に囲まれた教室はバルコニー付きで、花壇の花々までがお伽話に出てくるロシアの宮殿のようでありました。学校の隣は植物園で芝生が広がり、その北面には動物園があり、博物館と並んでおりました。そして校舎の2階は師範学校(教育大学)だったものですから、それはまさに理想的な教育環境でありました。
私はチビでよくカゼをひきましたが、学校を休むのもひとつの楽しみでした。本を見たり読んだり、クレヨン画を描きまくり、ラジオを一人聴くことは、おだやかな楽しみでありました。また、住んでいる官舎はロシア建築で、もともとロシア陸軍の将校官舎で、コドモから見れば広すぎる環境でした。白亜の建物で、ドアに鍵がかかっている使わない部屋、暗い廊下、シミが無気味な壁、高くて暗い天井などからロシア兵の幽霊が出そうで、怖がりながらも、見えない姿をアレコレ想像するのもひとつの楽しみでありました。
そして、もうひとつの楽しみがありました。ロシアの古い建物を眺め歩くことで、それはお使いの行き帰りを利用していました。廃屋になった無気味なものはなどは、とてもロシアの幽霊が出て来そうで、ワクワクとしながら怖がっておりました。そして、その建物のひとつひとつの不思議な形の向こうに、どんな人が住んでいるのかを想像しておりました。街は中国人と日本人だけなのに、私の頭の中には幽霊にされたロシア人が何人もおりました。ドロップスの飴缶に描かれたロシア人少女も旅順のロシア人たちと一緒に私の頭の中に住んでおりました。(佐々木侃司筆)
上のイラストは「想い出の風景/大陸の想い出」に近日アップいたします。

ぼんべ日記

kan-art2005-11-16

イラストレーター・佐々木侃司…彼はたくさんの作品の他にも、たくさんの名(迷)言・珍言、文章、そして数々のトボケたエピソードを残してくれています。それらを思い出すごと、見つかるごとに、年代関係なくランダムにご紹介して行くコーナーとして改めてスタートさせていただくことにいたしました。
それでは、どうぞヨロシクお願いいたします。